わたしの巡る 寺

何度でも訪れたくなる京都、
そして戻りたくなる宿。

東寺の門のひみつ

世界文化遺産のひとつに登録されている「東寺」は794年の平安京造営から2年後に、国家鎮護のため平安京の正門である羅城門の東側に創建されました。

東寺の正門は南大門ですが、東寺の東門にも重要文化財に指定されている2つの門があります。

1つは北側の門は慶賀門(けいがもん)という名の門で、JR京都駅から一番近い門であることや、門の近くにバス停や駐車場の入り口があることから、東寺では最も人の出入りが多い門になります。もうひとつの重要文化財である、東大門という名の門で扉は固く閉ざされています。出入りすることのできない門とは何とも奇妙なことではありますが、今から680年ほど前から東大門は閉ざされたままで、「不開門(あけずのもん)」と呼ばれています。

そう呼ばれた理由には、南北朝時代まで遡ります。
1336年6月上旬に足利直義の軍勢が、後醍醐天皇がいる比叡山を総攻撃しました。しかし、この総攻撃は後醍醐天皇の必死の防戦により失敗。
足利直義軍は高師重(こうのもろしげ)を失うなど、大きな打撃を受けました。
この知らせは、八幡市の男山にいた足利尊氏にも届きます。尊氏は直義に一旦は東寺まで退却することを命じ、自身も6月14日に東寺に布陣しました。
しかしこれは後醍醐天皇の策略であり、足利軍が京都市街に入った後、街道を封鎖して物流を断ち兵糧攻めする作戦を立てていたからです。
後醍醐天皇の率いる東坂本には新田義貞や名和長年など多数の武将がおり、それぞれ京都へ入る街道を封鎖しました。
京都市街の食糧不足を知った後醍醐天皇は、6月29日に足利尊氏が布陣する東寺へと進軍を開始します。新田義貞の攻撃は激しく、足利軍は東大門から次々に東寺の境内に逃げ込みます。そして、最後の一兵が境内に入ると東大門は閉じられ、その直後に新田軍が放った無数の矢が門に突き刺さりました。
東寺にこもる足利尊氏に対して新田義貞は、一騎討ちを所望するが門が開く気配もなく、結局東寺から退却をしたという逸話が残っています。
この戦から東大門は開くことはなかったと言われており、「不開門」と呼ばれるようになりました。通常であれば不開門は「あかずのもん」と読みますが、「あけずのもん」読むのはこの逸話から考えられたであろうと言われています。
680年ほど経過した現在でも新田軍が放った矢のあとが残っていると言われており東寺に来た際は確認するもの楽しい思い出になるであろう。